大航海時代の覇者
日本に鉄砲とキリスト教が伝来する1世紀前の15世紀のヨーロッパは、地中海を中心とした交易が下火になり、ポルトガルとスペインの船舶技術の発達により、次第にインド洋や大西洋や太平洋の航海へと展開し、地球一周を視野にした大航海時代へと突入します。
この時代の覇者ポルトガルとスペインは、先を争って大海へ乗り出し、1492年コロンブスによるアメリカ大陸の発見、1519年ー1522年にマゼランが航海での初の世界一周を成し遂げ、地球が丸いことを実証しました。
ポルトガル商人と奴隷貿易
大航海時代の主人公となるのが、海外貿易を取り仕切るポルトガル商人と、キリスト教、特にイエズス会の宣教師でした。
ポルトガル商人は、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ中南米、中東、アジア、東南アジアと活躍の場を広げ、多種多様な輸出入品を取り扱い、巨万の富を築いていきました。
商材は、砂糖、農産物、タバコ、生糸、金、銀、陶磁器、生薬、日本刀、武器、弾薬、硝石などで、寄港する都市ごとに貿易品を売りさばいては、新たな貿易品を積みいれて他の貿易港で売りさばく三角貿易を行っていました。
しかし、その中で人類史上最も不幸な貿易が行われていました。それは、奴隷貿易です。
1441年、ポルトガルのアントン・ゴンサウヴェスが、アフリカの西サハラの927名を奴隷としてエンリケ航海王子に献上したのが奴隷貿易の始まりと言われています。
その後、アフリカの部族同士で闘争を繰り返す中で、負けた部族の領民を勝った部族が奴隷としてポルトガル商人に売るようになり、やがてアフリカ人の中でそれを職業とする者が現れ、ポルトガル商人と結託して、黒人を奴隷として人身売買するようになります。
そして、この奴隷貿易はアフリカに限らず、東南アジアの黄色人種にも及び始めるのです。
イエズス会の活動
大航海時代のもう一方の主人公は、キリスト教のイエズス会の宣教師でした。
キリスト教会は、11世紀頃に初代教会から西教会と東教会に分裂します。
東教会とは、ギリシャ正教、ロシア正教など、いわゆる正教会と名のつく教会系統です。西教会は、バチカンのローマ教皇を中心とするカトリック教会です。
16世紀になるとルターを中心とした宗教改革により、カトリック教会からプロテスタント諸派が分裂します。
その理由は教会組織が大きくなるにつれて、聖職者たちの権威、権力に伴う華美な装飾や、贅沢な生活などイエスの教えとはかけ離れたありように対して、キリスト教の原点に立ち戻る活動でした。
しかし、プロテスタントとしてカトリックと袂を分かつ集団に対して、カトリック内で原始キリスト教精神に立ち返り、清貧・貞潔の誓いを立てる修道会が現れます。それが、フランシスコ・ザビエルや、イグナチオ・デ・ロヨラら等パリ大学出身の6名の同志によ1534年に結成されたイエズス会で、その後「ローマ教皇の精鋭部隊」とも呼ばれるほど教皇の大いなる信任を受けて、カトリックの衰退を食い止め、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジア、東南アジアと大航海時代の追い風に乗って教勢が大発展していく先駆者となりました。
イエズス会とポルトガル商人
イエズス会の宣教師たちの志は、イエス・キリストの教えに立ち返る「清貧・貞潔の誓い」にあったのですが、一方でポルトガル商人たちは、巨万の富を得るため奴隷貿易にも手を染める人たちで、その両者が同じ船で世界中に船出したのでした。
思想面では真逆の立場ですが、現実的には命がけの旅をするもの同士、お互いに深く結びつきながら世界中へ進出したのでした。
ポルトガル商人は権威をバックに奴隷貿易をするために、1452年ローマ教皇ニコラウス5世による異教徒を永遠に奴隷にする許可を与えてもらい、非キリスト教圏の侵略を正当化していたのでした。
それは、宣教師達が海外に伝道をする上でも大きな影響を与え、日本での布教活動にも少なからず影を落とします。
安土桃山時代の乱世の日本
大航海時代のポルトガル商人と宣教師の世界進出は、次第にインド、中国、香港、マカオ、フィリッピン、朝鮮、日本へと向かいます。
その頃、日本は戦国時代で国中の大名達は天下取りを目指し、国とり合戦に明け暮れていました。
1542年、ポルトガル商人により鉄砲が日本に伝来します。そのことは、戦国の世を勝ち残るために諸大名の戦術に大きな影響を与え、鉄砲や武器、弾薬、硝石などポルトガル商人との取り引きを求める大名が増えていきます。
1549年、イエズス会のザビエルがトルレスと初来日して、日本にはじめてキリスト教を伝えました。
ポルトガル商人とキリスト教の宣教師は深く結びついていたため、戦国大名の中にはより円滑にポルトガル商人と交易するためキリシタンに改宗しました。そして戦に負けた国の捕虜をポルトガル商人に奴隷として人身売買をして、武器、弾薬を手に入れたのでした。
織田信長の鉄砲隊が活躍した長篠の戦い
日本人が奴隷として売買されているなんて、にわかには信じがたいという人が多いと思います。日本の学校の教科書では記載されているのを目にすることはないからです。
しかし、天正遣欧少年使節団として ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見(1585年3月23日・天正13年旧暦2月22日)してローマ市民権を与えられた4人の日本人少年ら(伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルティノ)が語った海外で見た日本人奴隷に関する記事があります。
8年に渡る遣欧の旅先で、少年達は至る所で日本人奴隷の姿を目にします。
その時、彼らが語ったとされる記録がデ・サンデ著『天正遣欧使節記』に記載されていて、原マルチノと使節団の総責任者であるA・ヴァリニャーノとの間でこのような会話が交わされています。
「マルチノ、まったくだ。実際わが民族中あれほど多数の男女や、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値でさらわれて行かれて売りさばかれ、みじめな賎役に身を屈しているのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか、…」
また、千々石ミゲルとのやりとりで、A・ヴァリニャーノは
「ミゲル、いや、この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。何といっても商人のことだから、たとえ利益を見込んで日本人を買い取り、その後、インドやその他の土地で彼らを売って金儲けをするからとて、彼らを責めるのは当らない。とすれば、罪はすべて日本人にある……」
と、日本人奴隷を見て大きな憤りを感じる少年たちと、引率したA・ヴァリニャーノのやりとりの様子が克明に書かれています。
日本人の奴隷売買は、キリスト教の宣教師達にとって布教をする上で、大きな弊害となりました。
当時の宣教師達は、イエスの愛の教えを未開の地に広めるために命がけの宣教活動を行っていました。病に苦しむ人のために薬を与えたり、障害のある人々や赤貧に苦しむ人たちを保護したり、身寄りの無い孤児たちを預かって養育したり、イエスの説いた隣人愛を身をもって実践して、苦しむ人々の心を癒し、その姿に感化されて熱心なキリシタンになる人たちも多くありました。
そのため、ポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易に対しては、規模がだんだん大きくなったためカトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して、日本の宣教師達がポルトガル王セバスチャン1世に請願し、1571年に日本人の奴隷交易の中止命令を取り付けたのでした。
しかし、それでも日本人の奴隷貿易は止まず、天正遣欧使節団が日本を離れている間、1587年7月24日に豊臣秀吉が九州征伐の途上、イエズス会副管区長のガスパール・コレリヨを呼んで、人身売買について詰問しました。その時に、秀吉は次のようにいいました。
「予(秀吉)は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人(タイ人)、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。」
ルイス・フロイスの歴史書「日本史」より
これに対して、コレリヨは、「我々は悪くない、日本の大名が率先して人身売買をしている」と答えたために秀吉は激怒し、伴天連追放令を発布しました。
その後、1595年スペインのサン=フェリペ号事件が追い討ちをかけ、秀吉はキリシタン禁教令を発布し、26聖人の殉教へとつながります。
ポルトガルでは1595年に中国人及び日本人奴隷の売買を禁ずる法律が制定されたのですが、時すでに遅しで、日本の国は次第にポルトガル、スペインとの交易を縮小し、やがて途絶えることになりました。
豊臣秀吉による伴天連追放令、それに続く江戸幕府の鎖国政策の背景にはこのようないきさつがあったことを知った上で、天草の潜伏キリシタンの歴史を見ると、その意味をより深く理解できます。