潜伏キリシタンの発覚

1805年、天草島原の一揆から168年経った年に、天草島を統治する役人に激震が走りました。
それは、小さな一つの出来事が発端でした。それは、今富と高浜の領民が霜月祭という儀式に牛の肉を供えていたことが役人の取り調べてわかったのでした。
霜月祭とは、クリスマスのことで日本の風習の中にはないものでした。そこで、役人が検挙した疑わしき領民の数は5,000人を越えていたのでした。
この取り調べには、大庄屋の上田宣珍が穏便に済ませる対応をして「キリシタンではなく、先祖代々心得違いの参り方をしていた者」として一人も処罰されることなく済んだのでした。
その時、全員に踏み絵を踏ませましたが、それが現在の崎津教会の聖堂のある場所でした。
また、領民たちに心得違いの礼拝物と疑われるものは、誰もいない夜に崎津諏訪神社の箱の中に入れておくように言い渡して、アワビに刻んだクルスなどを領民たちはキリシタンと疑われるものを差し出したのでした。
このようにして多くの潜伏キリシタンが発覚した大事件でしたが、驚くべきことに潜伏キリシタン以外の神道や仏教の信徒たちは、潜伏キリシタンの存在を知りながら、誰一人として密告する者は無く、宗教を越えてお互いに支え合って暮らしていたのでした。

密告者がいなかった天草

諸外国では、異教徒に対して敵対心や警戒心があるため、密告者に報奨金が出るとなれば、たちまち密告されてしまい、潜伏は困難です。
ところが、天草では、誰も密告するものはいなかった。その理由は、独自の平等思想が昔からあったことが大きな要因だと思われます。
天草島原の一揆の時に、原城の一揆軍から幕府軍へ放たれた矢文には、「天地同根 万物一体 一切衆生 貴賎不選」と綴られています。
すべての命は同じ天地を元に生まれたもので、万物は一つであり、すべての人々に身分の差別はないと訴えています。これは、キリスト教の隣人愛の影響もありますが、同時に百姓たちが身分差別によって虐げられていたので、同じ人として本来は差別はないことを、仏教の教えの天地同根思想と相まって訴えていたのでした。
天草島原の一揆は見ようによっては、自由、博愛、平等を謳い文句にしたフランス革命より150年以上前の自由民権運動の走りと見ることができます。
さらに、一揆後天草の復興に尽力した鈴木重成代官の兄で僧侶である鈴木正三和尚は、その著盲按杖の中で、「庭に生る ちりぢり草の露までも 影をひそめて 宿る月かな」と詠っています。

鈴木三公

一揆後の天草を復興する使命を帯びて命を賭けた鈴木重成初代代官、鈴木正三和尚(兄)、鈴木重辰二代代官(息子)

【鈴木重成、正三、重辰像・天草信用金庫前】

領民の多くが一揆でなくなり、荒廃した天草を復興する使命を負った鈴木重成公は、初代の代官として幕府直轄地の天領となった天草に着任する。

経済復興、移民政策、農業、漁業振興など、多くの課題を抱えながら、その上二度と一揆が起きないように島民の心の復興にも、兄の僧侶鈴木正三の力を借りて尽力する。
検地の結果、前領主寺沢堅高の重税による圧制が元で一揆が勃発したことをつきとめ、二度と一揆が起きないようにするため、自ら江戸に赴き、再三にわたり石高の半減を嘆願し、最後は江戸屋敷で絶命する。
記録では、病死となっているが、実際は切腹だったとの噂が天草島内に広がり、天草各地の天草の恩人として祠が建てられ、現在も残っている。