幕府がキリシタン弾圧した訳

日本は戦国時代から天下統一へと向かっている時、西欧列国は大航海時代に植民地を全世界に拡大している最中でした。
織田信長は、南蛮貿易に積極的でした。しかし、豊臣秀吉は次第に西欧列国が日本に来る目的が何なのかに気が付いたのでした。宣教師が日本でしていることは、神社仏閣の取り壊しと、一神教のキリスト教の宣教と組織の拡大、ポルトガル商人たちは日本中の戦国大名相手に武器を売りさばく死の商人として暗躍し、日本人の奴隷貿易にも手を染めていることを知り、東南アジアの諸外国の様子を伝え聞き、いずれ日本も同じように植民地として西欧列国に支配されてしまう恐れを抱いたのです。
それが、ポルトガル商人の国外追放や伴天連追放令、キリシタン禁教令となり、徳川幕府の鎖国政策へとつながっていったのでした。
豊臣秀吉や江戸幕府のキリシタン弾圧はあまりにもむごいものがあります。
キリスト教の信仰を純粋に世界に広めようとする宣教師たちの使命感はとても崇高で、キリストの愛の教えを自ら体現して、貧者や弱者の救済活動には感動を覚えますが、その一方でカトリックの各修道会やプロテスタントの宣教活動は、国王の政策や商人たちとの連携によってなされていたので、必ずしも純粋な宗教活動とはいえないものも多々ありました。
日本の戦国時代と西欧の大航海時代の歯車が重なり、日本の中で70年に及ぶキリシタン黄金時代の舞台となったのが天草、島原、長崎だったのです。

有馬川の巡教

江戸幕府がキリシタン禁教令を発布した翌年1614年、有馬の家臣3名とその家族計8名が、キリスト教を棄教しなかったため、2万人の領民が見守る中、有馬川の河川敷で火刑に処せられます。有馬川は、天草島原の一揆の主戦場となる原城からも近い位置にあります。
この事件により、キリシタンは減るどころか、ますます信仰の火に油を注ぐように、領民たちの信仰は強くなり、23年後に起こる、史上最大の一揆といわれる天草島原の一揆の下地となりました。

アダム荒川の殉教

有馬川の巡教と同じ時期に、天草の志岐の伴天連が国外追放となったため、後任を託された日本人のアダム荒川は、司祭の代わりにねんごろに信者の世話取りをしていました。
そこに、迫害の手が及び、アダム荒川は真冬で野ざらしの拷問をうけながら棄教を迫られます。しかし、アダム荒川の信念は強固で、ついに棄教することはありませんでした。
アダム荒川は、若い頃人を殺めた罪で処刑されるところを、伴天連の領主への請願により命を救われ、以後キリシタンに帰依したのでした。無い命を与えてもらったアダム荒川は、生涯をキリシタンへの恩返しに捧げる決意をしていたのでした。
純真な愛の教えに殉じたアダム荒川の記念公園が苓北町富岡にありますが、キリスト教天草中央教会の南牧師は、アダム荒川の心を今に伝えておられます。