アルメイダが天草にやってきた

天草にキリスト教を伝えたのは、ルイス・デ・アルメイダでした。
アルメイダは、1525年にポルトガルの首都リスボンに生まれます。アルメイダの祖父は、ポルトガル国王の侍医で、父親は貿易商人でした。
アルメイダは、若い頃祖父と同じ医者になるための教育を受け、1526年ポルトガル王から医師の免許を戴きました。
ところが、結婚を約束した恋人が病に倒れて自ら治療に当たったのですが、回復することなく亡くなってしまいます。
そのためアルメイダは医師としての道に挫折を覚え、その後父と同じポルトガル商人として、インドのゴアからマカオへ渡り、1552年貿易が目的で初来日します。
その後、山口でザビエルと共に日本にキリスト教を伝えたイエズス会のコスメ・デ・トルレスと出会います。それから、宣教師達と交わりながら、思うところがあり、次第に宣教師への道を志すようになります。

当時の日本の宣教師たちは、日本人も見放したライ病(ハンセン氏病)患者に寄り添い、優しく看病しながらキリストの教えを説いたり、障がい者や不遇者や、身寄りの無い孤児たちを預かり、キリストの教えによりたすかる道を説いて世話していました。
宣教師達からあふれる熱意は、イエズス会創設の折りパリ大学を卒業したザビエルら6人の若者達が「清貧と貞節、エルサレムへの巡礼」を誓ったように、イエス・キリストの教えに原点回帰する白熱の信仰を体現しようとするものでした。
社会的弱者に対して、愛をもって接する宣教師達の姿に見ながら、次第に心の深くに慈愛の火が点り、やがてその火は燃え盛る炎のように大きくなって行きました。
アルメイダは、豊後府内(大分県大分市)で私財を投じて乳児院を建てました。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされています。
さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てました。
これが日本初の病院で、西洋医学が初めて日本に導入された場所で、現在その場所には大分市医師会立アルメイダ病院が建っていています。

アルメイダ記念像(大分市)

未開の地を切り開くパイオニア

アルメイダは、医師の免許をもっていたのですが、彼は西洋医療ばかりに頼らず、深い祈りの医療を心がけました。
人の持つ自然治癒力は、科学的、物質的医療処置だけでなく、精神的なありようで大きく変わることを実感する出来事が多くありました。
重い病でも、信心深い人ほど自然治癒力が高まり、どんどん回復していくのを目の当たりにして、そこに神の働き、人の精神力の偉大さを実感したのでした。
アルメイダの心に宿った信仰の炎は、やがて宣教師として、日本の中で未だキリスト教の教えが伝わっていない未開の地を切り開く先駆者(パイオニア)としての役割を引き受けることになりました。
トルレスも、アルメイダの医者としての技術、優れた学識を持ち僧侶などを納得させるだけの見識を認め、宣教師として様々な地域へ派遣をしました。
そんな中で、1566年志岐麟泉の要請に応じてトルレスは、天草へアルメイダを派遣しました。

天草の人々に慕われたアルメイダ

当時の天草のキリシタンが熱心に信仰していたかを物語る宣教師の記録が残されています。それを物語調で音声にしたのが下に張り付けてありますので、お聞きください。

わずか10歳のクリストヴァン少年が、たとえ脅されてもキリシタンとして死を選ぶことを厭わなかったとは、驚きです。

どうしてそこまで伴天連の人たちは天草の領民に信頼されたかということですが、それを物語るお話を下に紹介しますので、お聞きください。

当時の宣教師たちは、キリストの愛の教えを世界中に広めるため、すすんで貧者や弱者を救うことを使命にしていました。
日本人からも相手にされない村八分同然の人々たちを手厚く守った宣教師たちの心に多くの人々が真心を感じ、そこにキリシタンとして帰依したのでした。

なぜキリシタンが当時の日本に増えていったのか?
一つは、領主がキリシタンに改宗したためやむなく改宗せざるを得なかった家臣や領民たちがいる一方で、真実の心をもって人をたすけようとする宣教師やキリシタンの心に打たれて、自ら進んでキリシタンに改宗した人も多かったのでした。