キリシタンになった天草五人衆
天草島には、昔から五人の殿様がいました。大矢野島を中心に領地を持つ大矢野氏、上島の北部は上津浦氏、上島南部は栖本氏、下島北部は志岐氏、下島南部は天草氏が支配していました。
その五人の殿様は、1566年に天草にキリスト教が伝来する以前は、仏教を信仰していました。
天草で最も古いお寺として記録が残っているのは、天慶4年(西暦941年)に本渡の染岳観音院が真言宗の寺院として建立されました。上層階級の人たちは天台宗を、領民達は主に真言宗を信仰していたものと思われます。
つまり、キリスト教が伝来する以前の五百年間は、天草は仏教の島で、特に領民達が熱心に真言宗の弘法大師を信仰していました。
ところが、長崎の大村純忠が1563年日本で始めてキリシタン大名となってから、その兄弟である島原の有馬晴信がキリシタンに改宗し、更にその弟を養子にしていた天草の志岐麟泉が、キリシタンに次々と改宗します。
戦国時代の領主達は、ポルトガル商人たちを通して鉄砲、弾薬、硝石など喉から手が出るほど欲しかったので、キリシタンに改宗してポルトガル商人と貿易をするのが一番の目的でした。
そのため、志岐氏は再三にわたりザビエルと共に来日したコスメ・デ・トルレスに宣教師を天草へ送って欲しいと懇願し、1566年ルイス・デ・アルメイダが初めて志岐しの招きで受礼(洗礼名ドン・ジョアン)します。
その後、天草鎮尚(洗礼名ドン・ミゲル)、大矢野種基(洗礼名ジャコベ)、栖本鎮通(洗礼名ドン・バウトロメウ)、上津浦種直(洗礼名ホクロン)と、次々と天草の五人の殿様はキリシタンに改宗しました。
仏教徒の弾圧
天草五人衆の殿様たちは、その後、同じキリシタン大名であり、豊臣秀吉に仕えていた、小西行長の支配下におかれます。その時、ことごとく天草にあった神社や寺院を焼き払い、打ち壊しました。
天草で最初に建てられた染岳観音院は、小西行長によって焼き払われてしまいました。村人たちは、先祖代々拝んできた仏様が捨てられ、お寺が焼き払われる様子を見ながら、信仰心が厚い人ほど苦しんだものと思われます。
河浦町に伝わる話ですが、ある日、川底にキラキラ光るものが見えるからなんだろうと見てみると、小西行長がお寺を壊して捨てた観音菩薩の石仏が川底にありました。
村人たちは、今まで拝んできた観音様が川に捨てられている様に胸を痛め、こっそりと石仏を引き上げて、隠れて拝みました。
当時の天草の五人の殿様がすべてキリシタンに改宗したため、一日500人単位で、村ごとに仏教徒からキリシタンに改宗したといわれています。
そのため役人や村長や、中には僧侶までもキリシタンになり、村人たちも半強制的にキリシタンに改宗し、当時2、3万人といわれる天草の人口の7、8割が受礼し、お互いをクリスチャンネームで呼び合っていました。そして、日曜ごとに取り壊した寺院の跡に建てたキリスト教の教会に礼拝していたのです。
しかし、先祖代々大切に拝んできた観音菩薩が無残に川に捨てられていることに胸を痛めた村人たちは、キリシタンに改宗しながらも、ずっと隠れて観音菩薩を拝んでいたのでした。
時は流れ、天草島原の乱後、天草は幕府の天領地となり、鈴木重成初代代官の時代となり、キリシタンの教会を取り壊し、そこに元のように寺院が建てられました。
その折、ずっと隠れて拝んでいた観音菩薩像を元のお寺に安置することになりました。その石仏は、現在の河浦町の観音寺という浄土宗の寺院のご本尊となっています。
観音寺(天草市河浦町今田)
僧侶を殺害した大矢野殿
豊臣秀吉が1587年に伴天連追放令を出したその年、キリシタンに改宗したのが大矢野種基でした。
大矢野種元が秀吉が伴天連追放令を出したにもかかわらず、自ら進んでキリシタンになったのは、戦国時代で殺し合うのが当り前な中に、純粋なキリシタンは固い絆で結ばれていて、お互いを尊敬しあっている姿を、天草久種(ドン・ジョアン)の姿に見たからでした。
大矢野種基がキリシタンに改宗したのは、他の領主にように南蛮貿易が目的ではなく、純真な気持ちでキリシタンになりたいと思ったからです。
しかし、大矢野殿のキリシタンへの改宗は、大矢野地方の仏教僧たちにとって、大きな悲劇を生むことになります。それは、大矢野殿が仏教徒からキリシタンに改宗するという噂をきいた仏僧たちが騒ぎ出し、その中の長老が大矢野殿にキリシタンへの改宗を思い止まるように進言しに来たのでした。
太閤が伴天連追放令を発したその矢先に、キリシタンになるなど領民達にとって恐怖を覚える所業だったので当然のことでした。
ところが、大矢野種基の決意は固く、逆に老僧に向って、「呼んでもいないのになぜここに来たのか、帰ってくれ」と言い放ち、老僧は仕方なく帰るのですが、大矢野殿は家臣に老僧を追わせ、寺に帰りつく前に殺したのでした。
その後、大矢野種基は、配下の寺院の仏像、仏具をすべて回収して焼却し、寺院と神社を焼き払ったのでした。
そして、大矢野殿は自らの希望通りキリシタン(洗礼名ジャコベ)になっただけでなく、親族、家臣700名と領民2,371名を受礼させ、僧侶をすべてキリシタンに改宗させ、その生活を保護したのでした。
時は流れ、天草島原の乱後、大矢野のキリスト教会は取り壊され、その跡には鈴木重成代官によって遍照院という曹洞宗の寺院が建てられ、現在に至っています。
ちなみに、遍照院という名称は、真言宗の開祖空海の別称で「遍照金剛」に由来するもので、曹洞宗の寺院に名称になっていることは、とても不可解です。
しかし、かつてこの地にキリスト教会が建つはるか前から、真言宗の寺院があって、長きにわたり大矢野島の人々が「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛…」と唱えて続けていたことを思うと、その成り行きに納得できます。
曹洞宗 遍照院(上天草市大矢野町上)