【原城での一揆軍と幕府軍の攻防】

天草島原の一揆

1637年10月、領主による重税に耐えかねた元キリシタンの領民達は、同じく領主に不満を持つ浪人たちと結託して揆を起こしました。
リーダーは、16歳の少年天草四郎時貞で、ほとんど農民だった一揆軍3万7千人に対して、幕府軍は12万5千人に加えオランダの戦艦を洋上に浮かべて戦ったのでした。三代将軍徳川家光の命をうけ幕府ナンバー2の松平信綱は、関ヶ原の合戦以上の軍勢で、一揆軍と対峙する史上最大規模の一揆を鎮圧しました。

日本史上最大の一揆といわる天草島原の一揆軍には、3つのタイプの人々が混在していました。
1つ目のタイプは、不平等、不合理な封建社会で純真に愛の教えに生きようとするキリシタンたちでした。
2つ目のタイプは、領主の圧政に苦しむ領民たちで、食べていくこともできないほど、租税の取り立てが厳しいため、領民たち命の危機に瀕していました。その上、租税を怠るとむごい拷問で責められ、領民たちは生き地獄の様でした。
この3つのタイプの領民は、天草と島原地域の領民で、重なる人たちがほとんどでした。
3つ目のタイプは、敗戦や藩主の入れ替わりで、行き場を失い、徳川幕府に反感をもつ浪人たちでした。
天草島原の一揆軍3万7千人には、その3つのタイプの人たちが入れ混じっていたのです。

この一揆を、宗教戦争とみなすか、一揆とみなすか、反乱とみなすか、様々なとらえ方がありますが、共通するのは、天草と島原の小さなコミュニティーの人々が、国を相手に戦ったということです。
一揆軍に対する幕府軍は、全国のそうそうたる藩がフル装備で12万5千人に及ぶ関ケ原の合戦以上の大規模な軍隊でした。
そこで、とても不思議なことが一つあります。一揆軍と幕府軍の規模と戦闘能力の格差は、巨象と犬ほどの違いで、常識では10日もあれば幕府軍が勝利する戦闘能力なのです。
ところが、この一揆軍があまりに強すぎたのです。百姓や女、子供、老人など非戦闘員を多く抱えながら、なかなか負けない。功を焦った幕府軍の総大将板倉重正は、なんと討ち死にしてしまうのでした。
そして、ついに幕府のナンバーツー老中松平伊豆守信綱が、総大将として登場するのです。
15歳の少年天草四郎時貞を総大将とする一揆軍が、どうしてこんなに強かったのか?天草島原の一揆を研究する人々は、誰もがよほど優れた軍師、参謀がいたに違いないと言います。しかし、それがいったい誰なのか謎に包まれています。

真田一族の陰

1615年大阪夏の陣は、豊臣と徳川の最終的な覇権争いで、遂に徳川方が勝利を治めました。
その時、豊臣秀頼と最後まで従軍した真田幸村は、その時亡くなったといわれています。
ところが、島津には昔から大阪夏の陣で死んだのは影武者で、本物の秀頼と幸村は家臣たちと共に島津公の庇護を受けて鹿児島で隠れ住んでいたという伝説があります。
それを裏付けるように、鹿児島には豊臣秀頼と真田幸村の墓があり、地元の人たちをその伝説を信じているといいます。

天草町下田南地区は、明治時代まで小田床(こざとこ)と言われていました。そこには、古くから真田十八屋敷という伝説が残っています。
それは、大阪夏の陣で薩摩に隠れ住んだ真田一族は、幕府の監視のが次第に厳しくなることを警戒して、天草島原の一揆が起こる数年前に、真田幸村の息子大助と十八人の家臣たちが、密かに天草の小田床へ隠れ住んだという言い伝えがありました。
この小田床という地域は、他の地域と違い、天草西海岸の中で最も分かりにくい小さな集落で、長年の間真田一族の話は公にされていませんでした。
近年、小田床の昔話なる子供向けの小田床の伝説をまとめた書籍が発行されたのですが、その本には大阪夏の陣から薩摩へ渡り、そして天草へ隠れ住んで天草島原の一揆に至るまでの話が詳しく記されています。
どうやら真田一族が天草に隠れ住んでいたのは本当のようですが、興味深いのはその時期が天草島原の一揆が起こる数年前で、軍略に長けた真田一族が、もしも天草島原の一揆に関わっていたとしたら…、と思うと歴史のロマンが大きく膨れ上がります。
徳川幕府が小さな天草島と島原の人々と国の威信をかけて戦った天草島原の一揆ですが、あまりにも強すぎる一揆軍の謎は、豊臣が徳川に対して最後の巻き返しを企てたクーデタだったかもしれないというー説も捨てがたい話です。
※小田床の写真と地図

細川ガラシャ次男興秋が隠れ住んだ寺

真田一族の伝承と共に、天草にはもう一つ驚く話があります。
それは、細川ガラシャ次男興秋は、豊臣方についたため大阪夏の陣で切腹したことになっています。
ところが、実際に切腹したのは影武者で、本人は天草の現在の五和町芳しょう寺の裏手にあった薬師堂で僧侶となって二人の侍従と共に生きていたという伝説です。
この話の出所は、細川家十七代当主護貞公が、新聞のコラムに書いたことがきっかけで、その後実際にご夫婦そろって芳しょう寺に御礼参りに来ておられるのです。
細川ガラシャは明智光秀の次女なので、興秋は明智光秀の孫に当たります。実は、明智光秀の孫がもう一人、天草で生涯を終えています。その名は、三宅藤兵衛で、寺澤藩の士官となり天草城代として赴任して、天草島原の一揆の戦いで、本渡の広瀬で討ち死にしています。
三宅藤兵衛は、幼くして両親を失ったため、細川ガラシャの三人の子供たちと共に育てられました。
細川ガラシャは、熱心なキリシタンで、キリストの愛の教えを体現した方で、自宅を孤児院にして、孤児たちを預かって育てていました。その孤児たちと一緒に興秋も三宅藤兵衛も育ったため二人とも幼い頃受礼して、キリシタンに対しては深く理解しています。
天草には、知られざる歴史の秘話が埋もれています。
※芳しょう寺写真と地図
※明徳寺写真と地図